委員のインド生活記①

はじめまして、こんにちは。一橋祭運営委員会1年のとある委員でございます。ウェブマガジンを発行するにあたりライターの募集がかかっていたので何か寄稿しようと思っていたのですが、コロナだの組織体制だの責任だのといった話せば話すだけ煮詰まって腐った匂いのすることについて書くのは無粋だなぁと思ったので、旅行には行けないこのご時世ですが自分が一年と少し暮らしていたインドという国について書こうかなという次第でございます。これはあくまで自分の目で見て自分が感じたインドの話になるため偏った見解も多々含まれてしまいますが、しょうもないウイルスが一息ついたらこれを読んでいる皆さんに本当のインドを自分の目で確かめて頂ければなと思います。突然インドについて書き始めても読者を置いてけぼりにしてしまうので、僕が6年前にインドに降り立った経緯なんかも踏まえ、日記を読み返しながら書いていこうかなと。自分語りが多いのには目を瞑ってください。そういう年頃なんです。

自分は2歳から8歳までの幼少期を父の都合でオーストラリアで過ごし、日本に帰ってきてからは日本の公立の小学校に通いながら中学受験の勉強をする日々を送っていました。努力も実って第一志望の中学校に合格できたのですが、その数日後に母と父がシンガポールに転勤することになった話を夜な夜なしているのを盗み聞きしてしまいました。父は商社に勤めており、後からこのシンガポールへの転勤はインドで新たなビジネスの土台を築くための準備期間だと知らされました。知識を詰め込み年不相応に賢くなった12歳でもこれが仕方のないことだと頭では理解できたようで、この時両親が受験が終わるまで必死に僕からこのことを隠していたんだなと感謝していたのを覚えています。日本の中学に入学し、2学期が終わる頃には自分も家族と共に海外暮らしを始める予定だったのですが、若かりし頃の菅野少年はそんなことを忘れて青春を謳歌していました。文化祭や部活動といった新しい刺激に魅せられ、弟2人と母親が9月頃に先にインドへ飛び立った父と合流した後も祖父母の家から学校に通い幸せな毎日を過ごしていました。12月に愛する日本を離れるときには、空港で1人、人目も気にせず泣いていたのを思い出します。

そんな心境でたどり着いた異界、インドの首都デリーは空港の中から驚きの連続でした。写真の中でしか見たことのない高度経済成長期の日本の空気汚染をさらに5倍濃くしたようなスモッグがかかった大気、今まで行ったどの国よりも手際の悪いパスポートコントロールと飛行機の荷下ろし、鼻に残る不愉快な香り、その上どこもかしこも渋谷のスクランブル交差点よりうるさい。おまけに人は床がゴミ箱であるかのようにポイ捨てしていく。臭い、汚い、キツいという3Kが揃った国という風にインドを表現する人もいますが、それは全くもってその通りです。

最悪な第一印象と共に空港まで迎えに来てくれた父と合流すると、日本では貴族にしか縁がないと思われる運転手さんがスーツケースを車まで運んでくれました。家には掃除や料理をしてくれるお手伝いさんがいて、マンションのゲートの前にはガードマンが毎日立ってくれている。インドで生活する外国人は皆こういった人を雇っており(正確には会社が雇っている)、決して我が家が特別な訳ではないのです。車でデリー空港から帰る途中、車線を守らない車、さらに車線を逆走していく車、地獄のような渋滞、事故をも恐れぬ強気な運転。たかが20分のドライブでなぜ外国人がインドでは運転せずドライバーを雇うのかを理解しました。

ただ、インドで車に乗っていて日本人が1番ショックを受けるのは頭のネジが外れた交通マナーなどではなく、車が停車すると同時にやってくる物乞い達だと思います。ストリートチルドレン、今にも死にそうな赤ん坊を抱えた女性、片腕を失った老人、目を抉られた痕のある若者。日本ではまず見かけない人が車の窓1枚を挟んでお金を恵んでください、食べ物を恵んでくださいと懇願してくる。ただただ日本から連れ出されたというだけで悲劇のヒロイン面していた当時の僕にとって、その光景は鈍器で殴られたような衝撃とともに心の中に突っかかる嫌な気持ちを残していきました。その心に残った何かに向き合えるほど、当時の僕は大人じゃありませんでしたが、少し歳をとった今なら、恵まれた環境にいながら少しの不自由に甘えて前を向こうとしていない自分の情けなさや、これだけの環境を自分のために用意してくれている親に対して感謝ではなく不満をぶつけている自分の幼さといったものをインドに来て早々に自覚させられ、それでもそこから目を背けようと自分は必死だったんだなとわかります。インドの路上の人々の生活は、日本にいてはいつまでも向き合えなかった自分自身の弱さに向き合うきっかけになりました。

デリーに到着して数日が経ち、僕の体に異変が起きました。水が悪かったのか、何か微生物を食べてしまったのか、原因はわからないものの胃腸炎になってしまったのです。日本でいう所謂胃腸炎とは違い15分に一回はトイレに行かなくてはならなかったし、高熱も1週間ほど続きました。あまりに良くならないので病院に行ったら、そこには診察費を支払えないものの重病を患った者たちが溢れかえっており、その光景をみてさらに体調を崩して日本のどんな公衆便所よりも悪臭の漂うトイレで朝から何も食べてないにも関わらず2度ももどしてしまいました。インド特有の超強力な整腸剤をもらいその後数日で胃腸炎は回復しましたが、インドでは胃袋に入れるものにはこれでもかというほど気を遣った方が良いなと身をもって学びました。ちなみに、この胃腸炎のことを英語でお腹を意味するBellyとDelhiが韻を踏んでいることからDelhi Bellyと呼ぶそうです。これを知っておけばインド通ぶれますので是非。

前に軽く触れましたが、デリーは大気汚染が世界のほかのどの場所よりも酷いのです。あまりに空気が汚すぎて走ると有害物質を体内に吸収しすぎるため、体育の授業はろくにできません。雨が降っていなくても車のガラスが曇ってしまうためどの車もワイパーを動かしています。晴れている日でも太陽が見えないことはしばしばで、デリーの冬は普通に寒いのでヒートテックを毎日着ていました。また、空気汚染に対抗するために一枚2500円もする超強力マスクが出回っていました。白い使い捨てマスクを使用すると夕方にはマスクの口のあたりが真っ黒になるので、マスクが大嫌いな僕も流石にマスクを着用していました。この大気汚染の原因は排気ガスだけでなく、風に乗ってデリーに入ってくる焼畑の煙や10月末から11月にかけて行われるヒンドゥー教のお祭り、ディワリが関係しています。宗教のお祭りであるディワリですが、住んでいてわかるのはなぜかみんなが爆竹を鳴らして馬鹿騒ぎしているということだけです。1900万人弱の人々が昼も夜も構わずに爆竹を投げ出したらそれはそれは頭のおかしい量の煙が出るわけで、この時期に海外旅行をしてインドから逃げ出す外国人も多いです。旅行の際はディワリの時期だけは避けましょう。

楽しくインドについて思いを馳せていたら恐ろしいほど筆が進んだので今回はこの辺までで。レポートを書く時もこれだけ筆がスラスラ進めばどれだけ幸せなことでしょうか。もしそうだったら春夏学期に単位を10個も落とすことはなかっただろうに。あまりインドの楽しい部分について書かないまま終わってしまったので、次は楽しい部分マシマシでお届けしようと思います。また、文字に起こしたら嫌だなと思うようなことも、実際に目で見て肌で感じれば楽しめてしまうのもこれまた事実なので、インド楽しめなさそうだなと感じた人でも取り敢えず黙ってインドに行ってみてください。それでは、ここら辺で失礼いたします。

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