委員のインド生活記④

こんにちは、1年の委員です。覚えてくれている方もいるかもしれませんが、自分は3回にわたりインドについて紹介する文章を書かせていただいたものです。前回、まるで最終回かのような雰囲気で文章を締めてみたのですが、まだ書きたいことがあったのでもう一度書いている次第でございます。1年のくせにとんだでしゃばり野郎ですね。もうお前の文章飽きたぜって人はブラウザバックしてくださいって思ったけど、やっぱり読んでほしいので我慢して読んでください。今回は高校1年生の際に、父が単身赴任という形でインドに残っていたので高校の友達と3人で遊びに行った時のことについて書こうかなと思います。その時の旅行記がパソコンの奥底から発掘されたので、それを読みながら楽しく書いていこうと思っています。今回はいつもより長いですが、これで本当に最後の予定なのでお付き合いください。

2019年2月、僕のインフルエンザが治って次の日、成田空港に集合して懐かしのデリーに飛びました。飛行機の中で『万引き家族』を見て号泣しているところを隣に座っている友達にパシャパシャ撮られているうちに、デリーに到着。くすんだ空気と嫌な匂いで自分がインドに帰ってきたんだなということを肌で感じ、相変わらずどこの国よりも時間のかかるパスポートコントロールと荷物受け取りを終えただけでなんだかエモエモしい(造語です)気分です。2年ほど会っていなかった父親とドライバーさんとの再会を経て、例には例のごとくインドの道路に繰り出します。

友達2人がインドの街並みや交通マナー、物乞いたちへの衝撃を受けている間に車は目的地のイタリア大使館へ。初日にいきなりインド飯はしんどいだろうという父親の計らいの元、水面下でインドの食物で最も美味しいのではないかと噂される大使館食堂のイタ飯を喰らいました。お腹を壊さないよう細心の注意を払うためにジュースも氷抜きで頼むというインドならではの注文も、イタ飯なのにビーフもポークもないということも、インドを知らない友人達からすれば全てが驚きの連続です。夕飯を食べ終えると、父が一人暮らしするのにはあまりに広く、寂しさが漂っている懐かしの元我が家でつかの間の休息です。というのも、翌日もう一度飛行機に乗るのです。目的地はバラナシ。ヒンドゥー教の聖地です。

朝起きて再びデリー空港に直行。バラナシへの国内線はミニジェットで、今時珍しく空港から一度屋外に出て搭乗するシステムです。JALの席ですらくたくたになっていた僕らはインド航空のボロ席でへとへとにされ、さらにホテルに行くために世界のどこよりも汚いと思っていたデリーの道より汚くデコボコな道に2時間揺られました。車が止まったと思ったら目の前にあるのは広大でどぶ色のガンジス川。聖なる川にはどぶ水で服を洗濯する人や体を洗ったのちに頭まで潜りシャンプーをする人たちがわんさか。こんなとこに泊まるのかと呆然としていたところに一隻のモーターボートが現れました。湘南のバイクよりも大きな音が鳴るエンジンを携えている割にはチンタラ動くそのボートから、身だしなみが整った男が出てきました。聞くところによるとその人が泊まるホテルのコンシェルジュらしく、ホテルは川の向こうにあるというのです。どぶ風呂回避による安心と泥船に乗る不安が渦巻く中、満身創痍の我々を乗せて船が川を上りました。

船がたどり着いた先は周りの景色からは想像もつかない、城かと見違えるほど豪華なホテル。父が取っていたホテルはなんと、バラナシで最高級のホテルでした。食事も絶品でサービスも素晴らしく、豪華な部分はとことん豪華といういかにもインドらしいホテル。こんないいホテルをわざわざ取ってくれたのは、反抗期だった息子が日本から友達を連れてきてくれたことが余程嬉しかったからだったのでしょう。

これまで父が文章に登場することはあまりありませんでしたが、インドでの数年間で僕にとって最も大きなイベントは父との衝突でした。中学受験して行きたい中学校で楽しくやれていたのに、なんでそれを失ってこんな異国に放り出されなければいけないんだ、といかにも子どもらしい不信感を父にぶつけ続けました。父が日本人学校に通うのではきっと退屈だろうと色々調べてアメリカ大使館学校へ編入させてくれたり、休日インド観光をしようとたくさん声をかけてくれていたりと色々してくれていたにもかかわらず、まだクソガキだった僕はそんなことはどうでもいいから日本に帰らせろと喚き散らしていました。気に食わないことは全て父が僕をインドに連れてきたからだと当たり散らし、しまいには父との対話を全て拒絶するようになりました。そういった僕の行動は家族の雰囲気をぎくしゃくさせていき、それでもいつまでも前を向こうとしない僕は家族が帰るより一足先に日本に帰ることになりました。

帰国が決まってからも僕は相変わらずクソガキ根性全開で父と向き合うことから逃げていましたが、日本で半年程一人暮らしをしているとこれまで見えていたはずなのに目を背けていたことを見られるようになっていきました。父は僕がインドを少しでも楽しめるために色々してくれていたということ、父だって好きでインドにいるわけではないけど家族を養うために体を張って働いているんだとういうこと、息子からひどいことを言われて深く傷ついただろうなということ、大嫌いだったインドでの一年で僕は他の人にはない武器を身につけていたということ。自分の幼稚さに気付いても父は海のはるか向こう側におり、2人で話したりする機会はないままに時は過ぎて行きました。今回の旅行の目的は、狭まった視野でしか見てこなかったインドを広い視野で見ようということと、父とたくさん対話して感謝を伝えたいという意図があったのです。

そんな父に連れられ、ホテルに荷物を置くや否やバラナシの街を観光しに出かけました。バラナシには聖なる川であるガンジス川に死体を火葬して流す文化があり、実際にその火葬場を見てみました。そこで感じたことを言葉で表現するとどうしてもチンケになってしまうのですが、まだ燃えてない死体の山と燃やし終えた死体の山、人間が燃えていく匂い、その周りを無邪気に駆け回る小さな子どもたち、そこにあるもの全てが人間が生きて死ぬということについて何かを表現しているようでした。

ホテルのサービスで船から宗教儀式を見られるとのことだったので、陽が落ちてから見に行きました。その儀式は川の方を向いた大きな舞台でヒンドゥー語のよく分からない口上を長々と読み上げたあと、派手な衣装を着た人が派手な演出で踊るというもので、正直日本人の我々にはよく分かりませんでした。その祭りを見るためにたくさんの船が川に集まり、小さな子どもたちが花の入ったカゴを売って回っていました。そのカゴの中の蝋燭に火をつけて川に流している周りの人達の様子を見るに、死者の魂を見送る儀式だったのでしょう。よく分からなかったけれども、巨大なステージで行われる儀式と川を埋め尽くす船の様子は日本で行われるイベントのスケールとは一線を画しており、信仰心というもののパワーに圧倒されました。

ホテル飯は当然インド飯で、脂ギッシュなカレーとスパイシーなチキンを堪能しました。日本で食べるインドカレーはチキン系が多いですが、エビのカレーやココナッツの効いた甘めのカレーもどれも激ウマです。父はインド名物のキングフィッシャービールを何本も空けては上機嫌に久々の日本の若者との会話をエンジョイしており、僕ら若者は長時間の移動とたくさんの衝撃を受け疲労困憊だったため酔っ払いをいなしてから早めに眠りにつきました。

翌朝、ホテルがガンジス川の日の出を見に行くなら船を出すぞと言ってくれたので、早起きして船に乗り込みました。2月のインドはかなり冷え込みが激しく、寒い中早起きしたのだからと美しい日の出を期待していたら大気汚染と寒さ故の霧が重なりほとんど何も見えません。これがインドクオリティだとケラケラ笑いながら朝の散歩をすることになり、光物のアクセサリーや織物を売る人達やガイドしてあげるよと拙い日本語で話しかけてくる現地人など多くの人々に出会いました。中でも印象的だったのは蛇使いのおじいさん。蛇を籠の中から出して道ゆく人を喜ばせるそのおじいさんは、珍しい日本人を見つけるとチップチップと声をかけてきます。物価が日本ともデリーとも全然違うことを知らなかった僕の友達は200ルピー札(400円ほど)を渡すと、大喜びしたおじいさんは蛇を友達の首に巻きつけてたくさん写真を撮ってくれました。朝一から1ヶ月暮らしていけるほどの収入を得たおじいさんはそのあと大満足の笑顔で帰っていきました。

ガンジス川といえば沐浴が有名ですが、死体を流し生活廃液を流しゴミも捨てるガンジスの水は入るだけでも身に危険が及びます。避妊具を装着しないと性病になるとか足を入れるだけで全身麻痺するとか嘘か本当かわからない情報もあり、よそから預かっている子どもにこんなことをさせられないということで今回沐浴はお預けになりました。ただ、インドではこのガンジス川での沐浴が宗教的に重要な意味を持っているらしく、インド人ならみんな一度は沐浴をしたいと思っているという話を聞き流石インドだなあとみんなで感心。多分インド人の身体は日々劣悪な環境に鍛えられているので、沐浴した程度では何の問題もないのでしょう。

また長い移動を終えてデリーに帰ると、次の日は前回も書いたアグラへ行きタージマハルとアグラ城を観光しました。同じガイドさんが来たと思っていたら、その日のガイドさんは前のガイドさんにそっくりな弟さんでした。ただでさえインド人の顔の判別は難しいのに、兄弟とあれば気づけるはずもありません。アグラ観光は基本的には前回書いたまんまなのでもう深掘りしませんが、タージマハルでの出来事を少しだけ。

インド人はみんな自分が大好きです。いつでもどこでも自撮りしてるし、人の車のサイドミラーで髪をセットするし、スマホの背景画像は自分の顔面ドアップ。そんなインド人は肌の色が濃いからか薄い肌の色に憧れる気持ちが強く、それ故にタージマハルの前でゆっくりしていたらたくさんのインド人と一緒に自撮りする羽目になりました。僕も僕の友達も日本では起こり得ない事象に戸惑いながらも、芸能人になったようで悪い気はしないので一緒にたくさん自撮りしました。タージマハルの前で僕らが4人で記念撮影をしていたら、あるインド人家族に自分達の家族写真に入ってくれと頼まれたりもしました。モテたいけど日本では中々うまくいってない人は、出会い系に課金するのをやめてぜひインドへ。

アグラ観光を終え我が家に帰る前に、日本人インド駐在員御用達の日本食屋に行きました。チャーハン、親子丼、うどん、サバ味噌……と定食屋とファミレスを足して2で割ったようなメニューが並ぶその店の料理の味は、正直ファミレスと定食屋を足して20で割ったくらいのものです。ただ、インド飯に胃袋を荒らされ長時間の移動の連続で疲労を溜めた後に食べる久々の日本食は何か感動に近い感情を呼び起こします。美味いとはまた別の喜びを食を通じて感じながら、インドでの最後の夜を過ごしました。

最終日、特に予定もなかったので母親に頼まれていた紅茶を買いにいき、その足でマーケットでお土産を買うことにしました。レイバンやラコステのサングラスの偽物が1000ルピー(2000円ほど)で売られており、それ値切って700ルピーで購入して満足していたら、帰り際にお兄さんから3個500ルピーで買わない?と声をかけられインドの底知れなさに驚かされました。インド人にネゴで勝てるはずがないと思いながら、それを仕事にしている父がハゲるのも仕方ないと納得。現地駐在員に教えてもらった上質で安い洋服屋で上手く店員に乗せられ、残ったルピーを使い果たしてインド旅行を終えました。

帰りは夜便だったこともあり爆睡。飛行機が着陸し携帯が電波につながると、ようやく日本に帰ってきたなと一安心。日本の空港の手際の良さに大喜びしながら電車で帰ったわけですが、突如腹痛に襲われ途中の駅で降りることに。ある程度インドで生活していたのでもう免疫がついているだろうとたかを括っていたのがいけなかったのでしょう。その後1週間ほど腹を下して高熱にうなされ、治ったかなと思い学校に行ったら免疫が落ちていたためもう一度インフルエンザに。やはりインド、恐るべし。

いかがだったでしょうか。今回はこれまでの倍以上の文量になってしまったので、ここまで読んでくれている人はいつもの半分以下くらいでしょう。ここまで読んでくれた人たちはもう全員親友と言っても過言ではありません。大好きです愛してます。長いことインドについて書いてきましたが、インドシリーズはこれで最後になります。インドはコロナウイルスの感染者が現時点でアメリカに次いで世界で2番目に多く、コロナかどうかの診断を受けられる人はインド人の10%ほどなので、多分実際はダントツ1位でコロナが流行しています。そんなインドに行けるのがいつになるかはわかりませんが、文章だけでは伝えきれないその魅力と衝撃を、ぜひ自分自身で感じてきてください。それでは。